トップ対談 #04 株式会社 エス・シー・アライアンス 顧問 松木 哲志 様
トップ対談 #04 株式会社 エス・シー・アライアンス 顧問 松木 哲志 様
株式会社 エス・シー・アライアンス 顧問 松木 哲志 氏(写真 左) Talks with
ヤマハサウンドシステム株式会社 代表取締役 武田 信次郎(写真 右)
株式会社 エス・シー・アライアンス
顧問 松木 哲志 氏(写真 左) Talks with
ヤマハサウンドシステム株式会社
代表取締役 武田 信次郎(写真 右)
「幕あい」とは、一幕が終わって、次の一幕が始まるまでの間。舞台に幕が下りている間のこと。このシリーズでは、ヤマハサウンドシステムが日頃お世話になっているホール・劇場の世界を牽引するキーマンの方々に、市場のトレンドやヤマハサウンドシステムへの期待などを、その仕事の「幕あい」に語っていただきます。
第4回は、演劇、ミュージカル、コンサートと幅広いジャンルで音響に携わりながら、音響コンサルタントから建築、運営まで、使う側に理想的なホールのあり方を追求されている株式会社 エス・シー・アライアンス 顧問の松木 哲志氏に、これまで手掛けられたことや目指してきたこと、そして音響に携わる人がどうあるべきなどについて、お話をうかがいました。
プロフィール 松木 哲志(まつき てつゆき)
1947年愛媛県松山市生まれ。1966年早稲田大学政治経済学部入学。劇団自由舞台にて演出家 鈴木忠志、演出家 別役 実両氏と出会い舞台の道に入る。
1971年、エス・シー・アライアンスの前身であるサウンドクラフトに入社。越路吹雪ドラマチックリサイタルで舞台音響の道に入る。その後「劇団四季」のミュージカルでは『フィガロの結婚』『アプローズ』『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』等を演出家 浅利慶太氏、音楽監督 内藤法美氏、音響監督 渋谷森久氏の下で行う。
1973年よりヤマハ音楽振興会主宰の『ポプコン』『世界歌謡祭』でコンサートの仕事に携わる。その後『中島みゆきコンサート』から音響プラン・オペレーターを務める。
2009年〜2017年 株式会社エス・シー・アライアンス代表取締役を経て、現在は顧問。劇場・野外空間・テーマパークで行われるコンサート、ミュージカル、オペラなどに音響コンサルタントとして携わっている。国家資格 舞台機構調整士「音響」一級技能士、日本舞台音響家協会顧問。
大学の授業がなかったので「何か面白いことはないか」と演劇の世界に
芝居が好きだったから、
劇場を手掛けるようになった
武田:松木さんはどういうきっかけで音響や音楽関係の道を進むことになったのですか。
松木氏:大学に入ってすぐ、学生劇団の「自由舞台」に入ったのがきっかけです。
武田:もともと演劇に興味がおありだったのですか。
松木氏:全くないです(笑)。僕はもともとジャーナリストになりたくて早稲田大学に入ったんですが、入学してみたら当時ちょうど第二次早稲田闘争の真っただ中で授業どころではなかった。入っても3カ月くらい全く授業がないので、先輩に「何か面白いことはないですか?」って聞いたら、「いま一番前衛的で面白いのは自由舞台だよ」って教えてくれたんです。それで飛び込みました。
武田:その学生劇団で何をやることになるのですか。
松木氏:何でもやらされました。演劇っていうのは役者以外にも演出、舞台監督、照明、音響、大道具、小道具とスタッフが多く、それらの仕事もやりましたし、制作としてチケットを売ったりもしました。3年生の時には初めて福田善之さんの「袴垂れはどこだ」で演出をやりました。そんなこんなで4年間に11公演やって、ほとんど休まないで大学には通いましたが授業には出なかった(笑)。
武田:演劇が面白くなってしまったということですね。その後の進路はどうなったのですか。
松木氏:4年生になった69年、70年に再び早稲田闘争が激化するんですけど、今度は僕もその中にどっぷり入っちゃって、結局中退するんです。そのまま学生運動から政治闘争に入るのも違和感があって、ちょうど早稲田大学の隣にあった、劇団時代にお付き合いがあった有限会社サウンドクラフトに入社することにしたんです。
劇団四季の才能に囲まれて、音楽について学んだ
武田:サウンドクラフトに入社されて、音響や音楽の仕事とどう関わっていくことになるのですか。
松木氏:入社後すぐ劇団四季の仕事に就き、越路吹雪さんのミュージカルの音響に携わるようになりました。芝居をやっていたので脚本を読むことは苦にならなかったのですが、音楽に関しては全くの素人です。子供の頃何か楽器を習ったということもありません。でも、幸運なことに公演の作曲家や出演するミュージシャンに音楽を教わることができたんです。
武田:なるほど。劇団四季ですからすごい才能に囲まれていたわけですね。
松木:その頃越路吹雪さんは長期公演をされていたんですが、公演後の夜中から次の日の公演までけっこう時間が空いていたんですね。それで有名なピアニスト/編曲家の内藤法美さんに、楽譜の読み方からアレンジの仕方まで、音楽の「いろは」からはじまりいろいろなことを教えていただきました。
それから、バンドミュージシャンが公演後にジャズ喫茶に繰り出して、自ら演奏もして遊ぶんですけど、それにもよく誘われて実地でアレンジを教わったりもしましたね。その後、さまざまなコンサートのPAにも携わるようになります。
初代モデルからヤマハミキシングコンソール開発に携わる
武田:その音楽PAの経験が後の「ポプコン」(ヤマハポピュラーソングコンテスト 1969年-1986年開催)や「世界歌謡祭」(1970年-1989年開催)につながっていくのですね。ヤマハとはどういきさつで出会うのですか。
松木氏:ヤマハさんとの出会いはヤマハの前身の「日本楽器製造株式会社」 の時で、川上源一さんが社長をされていたころです。当時ヤマハは音楽教育に力を入れていました。そしてフォークやジャズなどの音楽フェスを開催するために野外ホールとして「合歓の郷」を建設したのですが、そのコンサートの音響の仕事を頼まれヤマハの方々と一緒にやるようになったんです。
その頃ヤマハさんはまだスピーカーやPA機器を作っていなかったので、ヤマハの方がサウンドクラフトに音響のオペレートを勉強しに来るという形でいっしょに仕事をしていました。
武田:それは将来的にPA機器に参入するつもりだったから、実地で勉強しようとしたのですね。
松木氏:そうですね。当時ヤマハはまだプロ用のミキシングコンソールは製造していなくて、世界歌謡祭のメインコンソールはヤマハが設計し、製造は他社に発注していました。世界歌謡祭は、1970年から1989年まで武道館で開催していましたが、武道館はもともと東京オリンピックの柔道をやるところとして建設されましたから、壁も床も全部コンクリートで吸音するどころじゃない。何もしなければ音がワンワン回ってしまうんです。その武道館で音響測定をしながら、システムを考えていきました。
武田:そのデータをもとにのちにPA機器を開発するということですか。まさに実験場ですね。
松木氏:そういうことです。世界歌謡祭の本番中に司会の坂本九さんが、「ちょっと皆さん、お時間をください」って言って、場内に音響測定用の信号を流したりしてましたから(笑)。まぁ主催だからできることなんですけどね。
そのようにして集めたデータをもとにPAの研究を進めて、ヤマハから初のプロ用ミキサー「PM1000」が誕生するんです。そこから後に「PM2000」「PM3000」「PM4000」、それから「PM1D」という流れで、デジタルミキシングシステムの「PM10」に至るまで、ヤマハのプロ用ミキサーが開発され、進化してきた歴史をリアルタイムで目の当たりにしてきましたし、少なからず開発にも関与してきました。
目指しているのは「明瞭度の高い音」を「自然な音像」で伝えること
武田:松木さんが劇場ホール建築のアドバイスに関わるのは「サントリーホール」からですか。
松木氏:そうです。ホールを使う側の立場として「使う側が便利なホール、困らないホール」にするにはどうしたらいいんだということでアドバイスをするようになりました。客席はもちろん、回線やトラックの搬入、動線など、多岐にわたることをアドバイスしています。
音響コンサルタントを始めた最初の頃は、設計しているゼネコンが非常に強かったので、こちらから提案しても、「あなたの意見はどれくらい信用できるのですか?」って感じでなかなかまともに取り合ってくれませんでした。例えば、あるホールの搬入口は当初は4トントラックを想定した設計でした。実際には11トントラックが入るからもっと搬入口の高さが必要だと言っても、「そんなものは絶対に来ない」と聞き入れてもらえません。案の定、いきなりオープニングイベントで11トントラックがやってきた。その後地面を削って搬入口を広げるという工事が入りました。
武田:そんな事例が重なって、音響コンサルティングの必要性が認知されていったわけですね。
松木氏:はい。「KAAT神奈川芸術劇場」では建設前の開発準備室から関わって、開館後には日常の運営にも関わることにしました。運営から入ると、すでに全部決まってから、ということがほとんどです。ですから劇場運営サイドからの意見は、改修の時にしか反映されないんです。でもKAATのように2年前に開設準備室ができていて、そこに設計変更や機種変更の権限を持って参加すると、いい劇場ができるんですよ。やはりできたものに関して責任を持ちますから、劇場の運営に関わる人が最初から加わっているのが理想ですね。
武田:音響コンサルタントをされる中で、松木さんが考えていることやポリシーなどはおありでしょうか。
松木氏:僕はまず「明瞭度の高い豊かな音」を「自然な音像」でお客さまに伝えることを第一のポリシーにしています。しゃべっている人、歌っている人のところに音像が固定して、その人が動けば追従して常に音像が定位していく。今ではいろいろなところでやられていますが、これはもうヤマハの世界歌謡祭の頃から私がずっとポリシーとして考えてきたことです。
歌謡祭、つまりコンサートだからとテレビのLRで聴こえるような音像ではなくて、今で言うイマーシブサウンド。言ってしまえば、劇場にも7.4.1chぐらいのDolby Atmos的な音響を目指すと、非常にリアリティが出てくると思います。
武田:イマーシブサウンドの劇場空間はすでに実現しているのでしょうか。
松木氏:固定設備としては少ないですが、仮設では今豊洲でやっている「 IHI ステージアラウンド東京 」がそうです。ここは劇場が360度回転するんです。でもお客さんにとっては回っているんだけど音はずっと正面にいてほしいわけで、そのあたりの制御を自動で行っています。
武田:松木さんのようにミュージカルとコンサートを両方やってこられて、ジャンルをクロスオーバーされている方はあまりいらっしゃらない気がします。
松木氏:最初は芝居から入って四季でミュージカルをやり、後にヤマハさんといわゆるコンサート、ポプコンや世界歌謡祭に関わってきたということが大きいと思います。単にL・C・Rで音を考えるのではなく、映画のマルチチャンネルの音響処理のようにコンサートであっても自然な音像を追求するという考え方はそこから生まれているのかもしれません。そしてこの方向性は最近の音源デザインの潮流でもあると思います。
音響に携わる人には劇場へ足を運んでほしい
武田:長年にわたりヤマハとともに歩んでこられた松木さんから「ヤマハサウンドシステムに期待すること」をお願いします。
松木氏:アイデアはいつでも現場から出てきますし、いいエンジニアも現場で育ちます。私の世代であれば、そのルーツはポプコンや世界歌謡祭という現場であり、そこで育ったのは後に日本のPA機器開発を担ったヤマハの技術者たちです。やっぱり現場でしか分からないことってあるんですよ。例えば、冬の北海道で機材を会館の中に搬入すれば、びっしりと結露してしまうわけです。設計者はそれがわかっていなくてはいけないし、技術者はその状態で電源を入れれば一発で故障してしまうことを知っていなくてはいけない。
そして現場を知るためには、音響に関わる人はできるだけ多く劇場に足を運ぶことが大切だと思います。クラシック、ポップスなどのコンサート、そして演劇やミュージカルなど、いろいろなジャンルの舞台を日常的に見て身につけていくことがヤマハサウンドシステムさんの「YSS 2.0」ではないでしょうか。 ヤマハサウンドシステムの歴代の社長さんも、やはり音楽が好きでこの道に入った方ばかりですよね。そのあたりのハート、音楽への熱い想いがヤマハサウンドシステムの若い社員の方々にも伝わるといいなと思っています。
しかしながら、それはなかなか簡単なことではないのもわかっています。ほこりにまみれた工事現場で仕事をするうちに故障がどうだとかゼネコンとの付き合いだとかという日常の中では、いつしか「音楽が好きだ」という気持ちもすり減ってしまうかもしれません。でも、自分が携わった劇場の完成後、どんな演目が上演されて、お客さんがどんなに喜ばれているかを観客として訪れて、ぜひ体験していただきたいと思います。
武田:まったくおっしゃる通りだと思います。ヤマハサウンドシステムはたしかに音響システムを納めていますが、お客さまが求めているものは機材ではなく「音」なんですよね。いいスピーカーが入っているから喜んでくれるわけではありませんし、いい技術を使っているから喜んでくださるわけでもありません。出てきた音に対して価値を感じていただいているわけです。ですから松木さんがおっしゃる通り、私たちヤマハサウンドシステムも「音」をお売りしている立場として、もっと劇場に足を運ばないといけないですね。やはり、「ここにこのスピーカーを入れたい」ではなくて、「こういう音を作りたい」という気持ちを原点にした仕事をしていきたいと思います。
松木氏:そうなんですよ。だからやっぱり、答えは現場にあると思います。
武田:われわれも新経営方針「YSS 2.0」で、「音にこだわる会社にします」と宣言しました。評価されるべきは「音」として、今後も頑張っていきたいと思いを新たにいたしました。本日はありがとうございました。
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