トップ対談 #02 株式会社ステージオフィス 代表取締役 市来 邦比古 様
トップ対談 #02 株式会社ステージオフィス 代表取締役 市来 邦比古 様
株式会社ステージオフィス 代表取締役 市来 邦比古 氏(写真 左) Talks with
ヤマハサウンドシステム株式会社 代表取締役 武田 信次郎(写真 右)
株式会社ステージオフィス
代表取締役 市来 邦比古 氏(写真 左)
Talks with
ヤマハサウンドシステム株式会社
代表取締役 武田 信次郎(写真 右)
「幕あい」とは、一幕が終わって、次の一幕が始まるまでの間。舞台に幕が下りている間のこと。 このシリーズでは、ヤマハサウンドシステムが日頃お世話になっているホール・劇場の世界を牽引するキーマンの方々に、市場のトレンドやヤマハサウンドシステムへの期待などをその仕事の「幕あい」に語っていただきます。
第2回は、日本全国の劇場の音響アドバイザーとしてご活躍の、株式会社ステージオフィス 代表取締役の市来 邦比古氏にご登場いただきます。弊社代表取締役 武田 信次郎とは約30年の長きに渡りお付き合いいただいているという市来氏に、これまでに手掛けた劇場のことや劇場における音響の考え方について、お話をうかがいました。
プロフィール 市来 邦比古(いちき くにひこ)
1970年代初頭から舞台音響家として様々な劇団、演出家、舞踊家と共同作業を行う。近作では2017年、2018年読売演劇賞受賞作品二兎社、永井愛作演出「ザ・空気」、「ザ・空気Ver.2」。1990年代より世田谷パブリックシアター、長久手町文化の家、可児市文化創造センター、北九州芸術劇場、まつもと市民芸術館、パトリア日田、神奈川芸術劇場、札幌芸術劇場、東京芸術劇場の改修等の劇場建築・舞台音響設備設計に関わる。世田谷パブリックシアター技術部長を2012年3月まで務め中規模改修の実現に努める。尚美学園大学・日本女子体育大学・多摩美術大学・九州大学非常勤講師を務めた。公益社団法人全国公立文化施設協会の支援員・セミナー講師等を務める。
芝居は好きだったが、音響に関わったのは成り行きだった
芝居が好きだったから、
劇場を手掛けるようになった
武田: 最初に市来さんが音響の世界に関わることになったきっかけを教えてください。
市来氏:学生時代、渋谷にあったライブスペース「ステーション’70」の音響を任されたことがきっかけです。学生時代の仲間が、そこを作るということでスタッフを集めているとき、僕は調布にある電気通信大に行っていたので、「電通大なら、電気のことは分かるだろう」と。それだけの理由で呼ばれました(笑)。ステーション’70は、当時としては最先端のライブスペースで、天井は全面アクリルの鏡、テーブルも全部透明なアクリルで、まだ万博の前でしたが、壁には24台のカラーテレビをパネルで設置してマルチスクリーン映像を流していました。そこで、「来週からここの店を開けるから、お前ここにある機械全部いじれよ」と任されました。オープニングパーティーは、たしか渡辺貞夫の演奏で土方巽が踊っているという華やかさで、ここで1年間、ジャンルを問わずに毎日PAをやっていました。人間国宝の琵琶の演奏会をやったこともありましたし、フォークの三上寛もよく出演していました。三上寛はここで演奏した時に私が録音した音源が後にレコードに収録されています。
武田:それまでに、オペレーションの経験はおありだったのですか。
市来氏:それが全然ないんです(笑)。高校の演劇で音響を担当したり、大学で何かイベントをやるときに任されたりする程度のものでした。ステーション’70では1年間みっちり、ジャズ、フォーク、和楽器系と、いろいろな音楽をシャワーのごとく浴びながらPAをやったので、音響の技術をそこで凝縮して身につけることができました。
武田:ライブスペースでのPAから舞台音響の世界にいったのはどうしてですか。
市来氏:ステーション’70の企画をしたチームが、当時蜷川幸雄さんらがやっていた劇団のスタッフチームと同じだったんです。そこにいた演出スタッフがちょっと実験的な舞台をやるから若いスタッフを使いたいということで、僕に声がかかりました。最初はフリーの音響という形で関わっていましたが、後に「第七病棟」という劇団の劇団員となり、本格的に舞台音響の世界に入りました。
武田:舞台音響のどこに惹かれたのですか。
市来氏:もともと芝居が好きだったんです。高校時代は演劇部でした。ただ役者としてセリフをしゃべると、東北弁と関西弁とが混ざった不思議なイントネーションになっちゃうので役者はあきらめました。それでスタッフに回って大道具からなんでもやるっていう高校時代でした。大学では演劇部がなかったので文学研究会に入って、その頃翻訳されて評判になっていたベケットの「勝負の終わり」という芝居をやりましたが、その時も僕がスタッフを任されて調布の児童館で上演しました。
「創造型劇場」の先駆けとなる世田谷パブリックシアターの設立に参画
武田:株式会社ステージオフィスを立ち上げたのはいつですか。
市来氏:平成元年です。1989年の7月、東京・渋谷のシアターコクーンの杮落としのタイミングで設立しました。ほどなくして「世田谷バブリックシアターを建設するから、アドバイザーになってほしい」という依頼が来ました。それがまだ若かった(笑)武田さんと知り合ったきっかけにもなります。たしか91年でしたが、当時はデジタルミキサーもあることはあったけど、まだ一般的ではなかった時代です。
武田:市来さんと出会ったのは、世田谷パブリックシアターでのお仕事でしたね。当時私はこの業界に入って5年目で、まだ右も左もわからないほど青かったです(笑)。世田谷パブリックシアターでは市来さんが中心となって、まだアナログミキサーが全盛の時代に新開発のフルデジタルミキサーを導入されたわけですが、それが日本の劇場に与えた影響は非常に大きかったですね。それともう一つ画期的だったのは、設立に関わったアドバイザーがそのまま劇場のスタッフとして残って運営側に入ったことです。市来さんは設立したばかりの会社の社長を辞めて世田谷パブリックシアターの職員になってしまうわけですから、これは画期的でした。
市来氏:世田谷パブリックシアターの仕事は区の外郭団体の職員という位置づけだったので、民間の仕事と兼任はできない決まりだったんです。
武田:社長を辞めてまでやった世田谷パブリックシアターには、やはり賭けるものがあったのでしょうか。
市来氏:世田谷パブリックシアターは、それまでの日本にはなかった「創造型劇場」の先駆けでした。施設内に稽古場が充実していて、大道具も小道具も衣装も製作でき、そのためのスタッフも揃っていて、主催事業として劇場の中で1つの作品が完全に作れるようになっているんです。その後世田谷パブリッククシアターを嚆矢として、私が関わった劇場としては、まつもと市民芸術館、北九州芸術劇場、神奈川芸術劇場、リニューアルを始めた東京芸術劇場などが、次々と「創造型劇場」を目指して動き出しました。
武田:「創造型劇場」という考え方はどこから生まれたのですか。
市来氏:イギリスで書かれた「劇場―舞台芸術のための建築計画と設計」という本を、劇場技術研究会で翻訳していまして、そこに「創造型劇場」の理論が書かれていたんです。そして、この本を一つの手がかりとして劇場はどうあるべきかということを、日本の劇場作りに関わる人間が考えていた時代でもあり、実際JATET(公益社団法人劇場演出空間技術協会)が作られたのもその頃でした。世田谷パブリックシアターの建設の話が持ち上がったのもちょうどその頃でしたので、ここでやろうということになり、「創造型劇場」を先駆けとして実現できた劇場となりました。
可児市文化創造センターは、「人が集って何かが生まれる場」としての劇場
武田:市来さんとその次にご一緒したのは、ヤマハサウンドテック時代の可児市文化創造センターでした。
市来氏:そうでしたね。可児市文化創造センターはいろいろと制限がありました。地域の劇場としては、スタッフを潤沢に確保していろいろなことができるのが理想ですが、なかなかそうはいきません。人が集まって、何かを生み出すためには場所は必要です。でも従来型の劇場は、いってみれば「使わせてやるぞ」的な運営で、気軽に集まっていろんな備品が使えるような施設ではありませんでした。市民が集ってなにか創造的なことをするのなら、気軽に集まって備品もすぐに使えるようなクリエイティブな環境が必要です。たとえば音を出すなら、技術のあるスタッフがいなきゃ使えないような高価な機材が必要最小限あるのではなく、ラジカセなどの安価な機材でいいので、それらが誰でも気軽に使えるようになっているほうがいいんです。そしてダンスでもバンドでも、芝居でも、どんどん使ってもらう、そして劇場はそれを使って活動する市民をサポートする。可児市文化創造センターはそんな劇場にしました。劇場とは、そこで何かをやりたいと集う場所であるべきだと思います。
武田:お芝居を見に行くだけの場所ではなく、市民たちが自ら集まって文化活動をしたくなるような場を提供するということですね。
市来氏:そうです。そして、市民の文化的な活動の目標となるようないい作品を誘致して、市民に見てもらうのも劇場の役割です。今、可児市文化創造センターでは、誘致した劇団の稽古をサポートするボランティアスタッフを市民から募って、場合によっては市民が端役で出演したりして、劇団と市民がいっしょになって演劇作品を作っていくという動きが生まれています。こうした動きは劇場として素晴らしい活動だと思います。
武田:北九州は今、非常に演劇が盛んな場所となっていますね。2003年に手掛けられた「北九州芸術劇場」では、どんな試みをされたのでしょうか。
市来氏:北九州芸術劇場に関しては、私に声がかかった時点ではすでに基本設計ができあがり、実質設計も仕上がった状態ではありましたが、いろいろな変更をしました。たとえば中ホールでは、もともと舞台の奥に大きなホリゾントスピーカーがドーンと固定されていたんですが、それを取り払うなどの設計変更をし、今日的な舞台の使い勝手に合わせて舞台演出の自由度を上げました。昔は今ほど大掛かりな舞台は組みませんでしたが、今はセットも鉄骨を組んだり、屋体を移動させたりしますから、後ろは全くのフリーにしておいて自由度を高め、メインスピーカーは移動型としています。
武田:同じ頃、劇場としては国内で初となるラインアレイを導入されましたね。
市来氏:ラインアレイは2003年の「山口情報芸術センター」で、ホール・劇場施設としては初めて導入したと思います。その前の2000年10月に、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに行き、そこの大聖堂前の野外で初めてラインアレイを体験しました。離れているのに音がドンと来ることに衝撃を受けましたね。それを世田谷パプリックシアターに持ち込んで、何度も実験を重ねていました。
ヨーロッパ水準のオペラ劇場を目指した、まつもと市民芸術館
武田:「まつもと市民芸術館」では、ヤマハサウンドシステム(当時はヤマハサウンドテック)としてもヤマハ製ではなく他社パワーアンプを導入するという、これまでの常識を打ち破った提案もしました。
市来氏:松本市がオペラの劇場を作ることになって作った劇場でしたが、基本設計6カ月、実施設計6カ月、そして2年で建てるという非常に短い工期でした。さらに松本市民からは「オペラ劇場が松本に本当に必要なのか」という声も上がっていました。反対派の人たちに対しては、まつもと市民芸術館館長兼芸術監督に就任したに自由劇場の演出家、串田和美さんが反対派の人たちとひざを詰めて話し合い「絶対に市民のためになる」と説得して完成させました。今では市をあげて応援されている劇場となっています。そんなまつもと市民芸術館ですが、ヨーロッパ標準のオペラ劇場にしたいというこちらの思いを汲んで、ヤマハサウンドテックさんは、当時ヨーロッパのオペラ劇場で人気のあったd&bのスピーカーとパワーアンプを提案してくれました。
武田:それまでは、あるメーカーがホール音響を施工するならパワーアンプはその会社の機器を使うのが常識というか不文律でした。「ヨーロッパ標準のオペラ劇場」というところから、「これはもう、d&bしかない」と考えて、社内の関係者にも合議を取って提案書を作りました。d&bのスピーカーは専用のパワーアンプが必要で、ヤマハのパワーアンプを使えませんから、社内的にはかなりの冒険だったんです。それに加えて、当時の社長がヤマハ本社の事業部まで赴いて、承認を取るなど苦労をした思い出があります。
市来氏:ヤマハサウンドテックさんからd&bのシステムで提案書が出てきたとき、それはもうびっくりしたんですよ。後で、「本当に大丈夫なの?」と武田さんに電話して聞いてしまいました(笑)。
武田:その時は市来さんに、「今回だけですからね」と言ったんです。でもそこから先は、なし崩しになってしまいましたね(笑)。でも、ヨーロッパ標準の本格的なオペラ劇場とするために当時は絶対に必要な提案だったと思いますし、いずれスピーカーと専用パワーアンプの組み合わせが当たり前になる時代が来るだろうとも思っていましたから。実際、今はそういう時代になっています。
市来氏:オペラ劇場は、基本的な劇場としてのスタイルは一緒なんだけど、マイクやモニタースピーカーなどの細かい機材が山のように必要になります。お客さまに向けては生だけど、バンダ(装置の裏など離れたところでの演奏)や陰コーラスがあるなら、そこにはモニターやマイク、それにモニターテレビも必要になります。
武田:その後市来さんが手掛けられた「パトリア日田」は、音響設備的には現在の市民会館の原型となるようなものですね。
市来氏:パトリア日田は、市民会館として一つの標準となるものを作ろうという考えで作られました。バリアフリーを取り入れ、客席から舞台まで全部同じ面にして、車いすで段差なく移動できる、平面プランです。また少人数でも運営できる設備にしました。
武田:2012年に、池袋の東京芸術劇場でも大規模改修が行われました。それにも市来さんは携わっていらっしゃいました。
市来氏:コンサートホールのスピーチの音声がよく聴こえないので何とかしてくれという要望があり、明瞭性を上げるために、非常に小さなラインアレイを設置しました。大きなスピーカーを吊るという案もあったのですが、それでは見かけも悪くなる。そこで、非常に小さくて長いラインアレイを使ったんです。それによって見た目がよく、スピーチの明瞭性は向上しました。
目指すのは、それぞれ劇場に合わせた自然な音の拡声
武田:市来さんは、音響アドバイザーとして、折々の先端的なテクノロジーを柔軟に取り入れて来られわけですが、劇場の音響において「こういう音にしたい」という、市来さんの目指す音やコンセプトはお持ちでしょうか。
市来氏:劇場は、いわゆるコンサート会場での音響とは違って、多種多様な出し物が催されます。それに見合う音響システムにする、ということが大切だと思っています。例えば劇場にラインアレイを入れる場合も、コンサートPAとは異なる音を求めます。舞台の音声は、劇場の響きに対して自然であるべきだと思っています。ですから、コンサートPAのラインアレイであれば遠達性があってクリアな音響がいいんですが、舞台や演者から離れた客席であれば、音量も下がるほうが劇場としては自然なんです。ですからラインアレイも、距離に合わせて減衰するような組み方をし、劇場の響きに合わせてその都度設計しています。
ヤマハサウンドシステムは、こちらの提案を実現するために意欲的に動いてくれる
武田:最後に、ヤマハサウンドシステムに対しての感想や、今後に期待することなどのコメントをお願いします。
市来氏:ヤマハサウンドシステムの方々は、限られた予算しかない中で僕が無茶を言っても、とにかくめげない(笑)。みなさん、非常に意欲的にこちらからの提案を実現するためによく動いてくださいます。それが素晴らしいと思っています。劇場における音響の仕事をやり遂げるうえで、やはりチームワークは大切です。今後ますます一人一人の力を高めていただき、私も含めてこれからもチームとして仕事をやっていきたいと思ってます。
武田:今日はお忙しいなか、お時間をいただきありがとうございました。
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